「五平餅がやってきた道」に関する事柄についてお話します。(下記図参照)
豊田市、特に足助地区を通って三河や尾張地方と信州・長野県方面を結ぶ主要な街道であった旧伊那街道・中馬街道や塩の道などとも呼ばれる街道を示したものです。
この街道は、古くは縄文時代に黒曜石を長野県方面からこちらに運んだり(こちらからは当然それに見合う形のものが動いていると考えられます)、戦国時代には武田信玄がこちらに攻めてきたりと、信州―三河を結ぶ重要な交流の道でした。
近世・江戸時代になると、この道は伝馬や宿の規制のかかる官制道路である中山道(大名行列やオモテの道として利用)とは異なり、民間の道として、物資輸送の幹線路として機能します。
中馬街道などと呼ばれるのも、中馬は、賃馬とか付け馬(伝馬のように宿場ごとに馬を代えるのではなく、1頭の馬に乗せた荷を積み替えなしで輸送する馬)などが、民間の道であるこの街道で盛んに行われたことから、それらの名前がなまって「中馬」となったという説があります。
この足助を通るルートのほかに、尾張方面から美濃を通って信州方面へ向かう道も「中馬街道」と呼ばれます。
さて、その街道と五平餅との関係ですが、先ほど述べた五平餅の分布域と、この塩の道・中馬街道を重ねると、興味深いことがわかります。
この街道が五平餅の分布圏と見事に重なるのです。
長野県を例としてみると、この街道の終点がどこになるかといえば、塩尻市のあたりになります。三河湾側からの塩が運ばれる最終地点、だから塩尻になるのですが、ここから北、松本市までは、日本海側からの塩が入ります。
つまり、太平洋側と日本海側で流通ルートが異なり、それに伴って文化圏も異なります。
この地域で食文化を見てみると、塩尻以南の長野県中南部には五平餅が分布していますが、松本から以北の長野県北部には、五平餅の分布は見られず、代わりに小麦粉食である「おやき」が分布します。
そして、塩の道は当然海までつながっているわけですが、愛知県の海側、碧海郡以南や、尾張の海岸部には五平餅は分布していません。
これは、川・船による物資輸送が行われていた地域と、人馬による物資輸送が行われていた地域とで分類できます。
鉄道やトラックによる輸送がなかった時代は、河川を利用した舟運が物資輸送の大動脈として利用されていました。そこで、海から船でさかのぼられる地点までは船で、それから上流は陸上輸送で物資が運ばれています。
豊田市は、ちょうど平戸橋のあたりが矢作川をさかのぼる航路の終点にあたります。それより上流は(今はダムができてわからなくなっていますが)急流で幅が狭く、船ではいけませんでした。
そこでここからは馬の背に荷物を載せかえて陸路を運ぶことになります。
一方、木曽川についても同様で、ちょうど岐阜県可児市の今渡のあたりが舟運と陸上輸送の結節点になります。
ということは、この街道に沿った太平洋側からの陸上輸送の範囲が五平餅の分布圏に当たるわけです。
ここでイレギュラーとなるのが飛騨地方ですが、これは三河や尾張からの流れではなく、実は長野県の塩尻あたりとの交流で説明がつきそうです。
さて、中馬街道と五平餅の分布を再度眺めると、ここでも、山の暮らしが注目されます。
つまり、陸上輸送をする人たちによって五平餅が伝播し、舟運の人たちには伝わらなかったということです。
中馬の賃稼ぎをする人たちは、主に山里で暮らす人たちです。その人たちを介して五平餅は広がっているといってもよいのではないかと思います。
残念なのは、中馬の記録を見てみても、五平餅を携帯したというような記録がないことです。ただし、中馬に関わる人たちが宿泊する馬宿のもてなしに五平餅が出ていることが確認できれば、伝播の仕組みについて非常に有力な証拠となります。
また、この分布圏を見て、次にはどこが五平餅の発祥の地なのか、という興味もわいてきますが、正直なところ、これもわかりません。
ただし、地理的に見てみると、この豊田市というのは非常に有利なところにあります。
飛騨方面を除く伝播の経路を考える際、どこが中心地となるとうまくいくか、スムーズかというと、この豊田市域にならないだろうか、と思うのです。
信州方面への輸送については、豊田市内では中馬の賃稼ぎの人たちの多くが巴川筋や足助地区から出ているということ。
それらの中馬に関わる人たちが泊まる馬宿も市内(稲武地区など)にはあること。
分布域のほぼ中央にあたり、伊那谷、美濃―木曽谷と、どの地域に進むこともできること。
長野県側から発生したものだとしたならば、木曽谷・伊那谷と、分布がもう少し限定的になってもおかしくありませんし、塩尻あたりが発祥ならば、文化圏が違っても松本方面へもう少し進出してもよさそうなものです。
美濃発祥とすると、西美濃方面への広がりが見られないのは、これも何か壁があったと思いますが、力不足に思えます。
それでは三河の中でも、東三河はどうかというと、これも遠州・静岡県西部に五平餅の広がりがないところを見ると、力不足かと思います。
また、五平餅自体の形を考えてみても、美濃地方には様々な形が入り混じっています。
信州方面は丸型が多くなっています。
それに比較するならば、三河にはどちらかというと古風な(山の講起源説を念頭にすると)わらじ型が主力であり、この方面からも発祥の地をアピールできそうです。(ただし、おにぎり型の米を棒に突き刺して焼くことが起源だとすると、丸型も「古風」となる。それぞれの地域で発生していることは当然なので、確実なことは何も言えない状態。)
結論的には、この豊田市域は発祥の地として名乗り出ても、他の地域に比べて有利な地理環境にあります。