五平餅の歴史〜五平餅がやってきた道をたどる旅"
五平餅という、私たちが昔から馴染んできた“ソウルフード”ともいうべき、
食べ物の背景にある歴史と文化について考察してみました。
まず五平餅の起源、次に五平餅の分布圏、そして五平餅の伝播に関わる街道の話、
そして、「とよたの五平餅とは何なのか?」
その定義について考えられることをお話します。
まずは、五平餅の起源についてお話します。
起源については、実はたくさんの説があります。
豊田市内の五平餅屋さんからいただいたアンケートの結果を見ても、各お店によって多様な起源の説がありました。
それらを大きくまとめると、ここに掲げた「山の講」のお供え説、林業従事者のお弁当説、「五平さん」考案説、その他地域の伝承、の4つに分類されます。
これらのうちどれが本当の説なのか、と追及することが目的でなく、
どれが本当であろうと、その地域や店でその説が存在するということに、
五平餅の「物語」としての意味があるのではないでしょうか。
これらの起源説の概要について、みなさんにそれぞれご紹介してみたいと思います。
山の講とは、山の神様をお祭りする行事です。
一般的に山の神様は、大山祗命・木花咲耶姫命といわれ、春には山から里に下りてきて、秋にはまた山に帰っていくという里にとっては実りをもたらす神様です。
一口に「山の講」といっても、大きく分けて2種類があります。
一つには、山と田の境にまつられた山の神さまと、もう一つは、山の中の見晴らしのよいところなどにまつられた山の神様です。
これらの違いは、田に実りをもたらす農耕の神様が前者のお祭りで、後者は山の恵みをもたらす、つまり林業などに関連する神様のお祭りということです。
2つがどう違うかは、簡単に言いますと、実りをもたらす田の神様を祭るのは里の村人が全員で「お迎えと送り」の儀式をする一方で、山の中の神様はどちらかといえば山の仕事につく人だけで山の仕事の安全を祈ってお祭りをする、というところに両者の性格の違いがあるかと思います。
ただ、それぞれの山の講には共通点もあります。
まず地域性ですが、この「山の講」は全国的に見られる風習です。
そしてお祭りの回数も、春と秋の2回のお祭りがあります。
また、お供えするものにもある共通点があります。山海の幸とともにお供えされる一番のご馳走、それが米をつぶして作った餅状のものです。
南信州のある地方では、水に浸した生米をそのままつぶして餅状にしたものをお供えする習慣もあるようで、秋田県の一地域の郷土食として有名な「キリタンポ」も実は、山の神にお供えしたご馳走が起源だといわれています。
特に春のお祭りには五平餅が供えられることが多いようです。
もともとは、木の枝などにおにぎりのようなご飯の塊をつぶしながらつけて棒状にしたもの、それをお供えした後に焼いて食べたというようなものだったのでしょう。
こうしたお供えがおそらくは山の神に共通する習俗としてあり、そのお供えをお下がりとしていただくことから、五平餅が発生したと考えられます。
それが食べやすいように、とか、見栄えをよくするために火にあぶって焼くためには、棒状のものよりも平たいほうが火は通りやすいですし、もしかしたら御幣に似せて形を作ったかもしれません。(そうした形がいろいろな地域にあっても、それは納得できるわけです。)
そしてそこの地域にある食材を使って味を付ける、(豊田市内では味噌やたまり、醤油になります)ということでその土地の郷土料理になります。
この三河地方では、それが五平餅となったということです。
五平餅といわれる名前の起源としても、この山の講説は、神様にお供えする御幣の形と共通する「祭り」に同じ根を持っているところでつながりがあるといえます。
次に、山の仕事(林業従事者)の携帯食や保存食が起源だという説です。
この説には、携帯用に便利なようにとか、保存用にとか、炭焼きなどの窯を作った際に窯の前に供えたものとか、これもいろいろなバリエーションがあるようです。
そこで語られるのは、先ほどの山の講説と同様な調理方法です。
ただし、五平餅は江戸時代後期にはその起源があると考えたいのですが、その当時、山仕事する人たち、一般庶民が白米を日常的に沢山食べられたか、ということを考えると、疑問符?がつく説でもあります。
つまるところ、可能性としては、すでに五平餅という(五平餅とはいわなくとも)食の形態があったことを前提にこの説が生まれているような気がします。
ただし、この説が間違いだということは、絶対に言えません。
ここで大事なのは、山で仕事をする人たちが五平餅にかかわっている、ということをこの説が如実に示しているということです。
この説は、五平餅の“ゴヘイ”という言葉を前提にしている様な気がしてなりません。
五平餅の名前を人の名前に託しているということです。
ここで注目したいのは、五平さんの職業です。
その多くは農民ですが、きこりや炭焼きなどであったり、荷稼ぎの人であったりします。
つまりは、ここでも山の生活にかかわっている人が見え隠れするのです。
これも多種多様なものがあります。
徳川家康や足助次郎重範が出てきますが、これは地域の成り立ちや文化を五平餅の誕生に反映したもので、大変興味深い話があります。
ただし、それら話しの具体性に比較して、それを事実と証拠付けられるものがないことが弱点といえます。
ざっと、4つの説の概要に触れてきましたが、ここで振り返ってみると、五平餅の名前とその発生が系統立てて説明できるのは、「山の講」説だということが出来ます。私個人としての見解ですが、これが五平餅の起源として説得力があるのではないかと思います。
おそらく五平餅は江戸時代の後期には既にあったと考えられますが、確実に論証できる資料を確認しているわけでもないので、どれが本当のことかは正直なところ、私にはわかりません。
五平餅を専門で調べている学者がいるかということを、この前調べてみましたが、どうやら誰もいないようなので、いわゆる権威ある説もない状態です。
ここで大切なのは、これらの説のどれが正しいのか、ということではなく、それぞれの説から垣間見られる、「山里の暮らし」を背景に生まれてきたものが五平餅だということです。
山の講にしても、山の仕事の人たちの弁当にしても、五平さんの職業にしても、地域それぞれの説にしても、その土地の山里の文化が五平餅の背後に「物語」として見えてくるわけです。
五平餅の定義として話をするにあたり、この山里の生活、山の文化、が五平餅の物語としてあることを、「序説」として提言します。